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維新三傑と呼ばれていた「大久保利通」とは? 生涯や成し遂げたことをご紹介

写真提供/公益財団法人 鹿児島観光コンベンション協会

大久保利通の生い立ち

大久保利通(おおくぼとしみち)は薩摩出身の幕末から明治期に活躍した政治家です。 大久保利通は、薩摩藩の下級藩士の家に生まれました。西郷隆盛とは同じ町内で成長します。父親は薩摩藩御小姓組・大久保次右衛門利世です。大久保利通は幼い頃は病弱だったため、武芸ではなく学問に励んでいたそう。

下級藩士の生まれではあったものの、薩摩藩の若い武士の中心になって藩政改革に取り組みました。明治維新にも大きく貢献。維新後は日本の近代化を推し進めます。最期は旧武士である士族に襲われ非業の死を遂げました。

大久保利通は維新三傑と呼ばれていた

大久保利通は、維新三傑と呼ばれていました。維新三傑とは西郷隆盛(薩摩藩)、木戸孝允(長州藩)、そして大久保利通の三人。 彼らは明治維新のために尽力しただけでなく、維新後の国家建設にも大きな貢献した人物たちです。

大久保利通がしたこと3つ

倒幕

大久保利通は、薩摩藩内で誠忠組(せいちゅうぐみ、精忠組とも書く)を結成して西郷隆盛らとともに島津斉彬(しまづなりあきら)の庇護のもと藩政改革に取り組みました。島津斉彬が死亡した後は、島津久光(しまづひさみつ)のもとで、藩政の改革や公武合体運動を推進します。公武合体とは、朝廷と幕府が手を組んで政局を安定させようという考え方です。

島津斉彬も島津久光も、当時の藩主としては革新的で、大久保利通や西郷隆盛といった下級藩士であっても、その能力を認めて重用していました。

当初は公武合体を進めようとしていた大久保利通ですが、幕府による長州征伐や薩摩と長州の争いなどを経て、倒幕すべきと考えるようになります。

そこで 坂本龍馬(さかもとりょうま)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の仲介で、敵対していた長州藩と薩長同盟を結び、倒幕に向けて動き出しました。薩長同盟を結んだ後は、大久保利通が討幕派の中心になって、王政復古の政変までこぎ着けたのです。

これを受けて、幕府は滅亡、天皇を中心とした新政府が樹立されます。

王政復古によって、新たに三職(さんしょく)が創設されました。三職は総裁・議定・参与の三職から構成される新政府の中枢です。大久保利通は参与に任命され、版籍奉還や廃藩置県を成功させました。

欧米視察

明治維新後、大久保利通は岩倉使節団の副使として、欧米諸国を訪問して西洋文化、技術を吸収します。 欧米の進んだ技術を目の当たりにした大久保利通は、国力増強に取り組むことになります。大久保利通が特に驚いたのが、イギリスの工場群でした。イギリスでは町ごとに工場があり、それが強さの秘密だと彼は考えます。

岩倉使節団には、大久保利通のほかに伊藤博文、木戸孝允、女子留学生として津田梅子らが含まれていました。大久保利通らが欧米を訪れている間は、三条太政大臣、西郷隆盛、大隈重信らが政府の留守を預かります。

日本を近代化に導く

帰国した大久保利通は、富国強兵を推進しました。具体的には官営工場の設立に尽力します。国が工場を運営して工業製品を世界に出荷するのです。大久保利通らが取り組んだ工場の中で最も有名なものが、富岡製糸場です。富岡製糸場では日本の代表的な輸出品であった絹糸を大量生産しました。富岡製糸場には、フランス人技師を招聘して、熟練工を養成したのです。富岡製糸場以外にも、日本各地に官営の紡績所が設営されました。

大久保利通らによる、国を挙げての産業発達のための政策を殖産興業(しょくさんこうぎょう)といいます。富岡製糸場を始めとする官営工場の飛躍的な生産量の向上により、明治の終わりには、絹糸の輸出量は世界一を誇るようになります。

大久保利通に関係する人物

ここからは大久保利通とゆかりの深い人物を紹介していきます。

西郷隆盛

西郷隆盛と大久保利通は、薩摩藩時代から同じ下級藩士として志をともにして、藩政改革を進めていました。

西郷隆盛も大久保利通と同様に明治維新後は明治政府の中枢で活躍します。戊辰戦争では参謀を務めて、旧幕府軍を討伐。廃藩置県にも取り組み、大久保利通と同じ方向を向いているように思えました

ところが、日本と韓国が外交トラブルを起こした際に、西郷隆盛は韓国への出兵に反対。一人で政府を去ります。その後、九州の士族らとともに西南戦争を起こして、最期は自害します。

木戸孝允

木戸孝允は長州藩士として生まれ、高杉晋作や伊藤博文らとともに松下村塾で吉田松陰に尊皇攘夷思想を学び、後に長州藩の中心人物になりました。 木戸孝允も大久保利通と同様に、薩長同盟の立役者の一人であり、長州藩を倒幕派へと導きました。 王政復古後は、五箇条の御誓文草案の執筆にも携わります。また 大久保利通と同じ参与に任命されて、版籍奉還の実現に貢献。岩倉使節団にも副使として参加。大久保利通と似た経歴を歩んでいるといえるでしょう。

その後は文部卿や内務卿などを歴任しますが、志半ばで病に倒れ44歳で死去しました。

岩倉具視

岩倉具視は、公家出身の幕末から明治にかけて活躍した政治家です。幕末期は孝明天皇(こうめいてんのう)の侍従として朝廷内での強い発言力を持っていました。朝廷内の公武合体派の推進者で、天皇の妹である和宮(かずのみや)と14代将軍家茂との結婚を成功させたことも岩倉具視の功績の1つです。その後 大久保利通らとともに大政奉還の政変を敢行。

明治政府では、三職のうち、参与、議場、そして大納言、右大臣などを歴任しました。また、大久保利通が副使に任命された岩倉使節団の匿名全権大使も務めています。

岩倉使節団による海外視察は、大久保利通による富国強兵、殖産興業の政策を乗り出すきかっけにもなっていますので、岩倉具視と大久保利通の人生も大きく交差しているといえます。

大久保利通の人生から学べることは?

大久保利通の人生から学ぶこと、それは「必要な変化であっても、その先にある「痛み」を思いやることの大切さ」です。

大久保利通が日本にもたらした功績は非常に大きく、日本近代化の基礎を築いた類い希なる才能の持ち主です。ところが最後は、暗殺による非業の死をとげます。大久保利通を殺したのは6人の不平士族でした。大久保利通らが進めた明治維新、そしてその後の改革は多くの人に近代的な生活をもたらした反面、支配層だった武士たちの一部は大きな不満を抱きます。

それが噴出したのが、西南戦争です。西南戦争では、旧知の仲であった西郷隆盛と大久保利通が対立。不平をもった元武士である士族たちを率いて西郷隆盛でしたが、政府軍に敗北を喫して自害しました。士族らは大久保利通が西郷隆盛を死に追いやったとして、恨みを募らせます。そしてとうとう西南戦争の翌年、東京都内で不平をもった士族6人に大久保利通は殺害されてしまいました。

大久保利通は日本の近代化を一歩も二歩も進めた偉人であり、後世でも大きく評価されていますが、当時の日本人の中には、改革や政策を快く思わなかった人も少なくなかったのです。大久保利通は日本のためを思ってさまざまな改革に取り組みますが、その陰で涙をのんだ人もいました。

私たちが暮らしていく中でも、「やりかたを変えたほうがよいのでは」、「昔ながらの方法では効率が悪すぎる」と気付くことはあると思います。それをすぐに変えてしまうのは簡単なこと。しかしながら、たとえ正論であったとしても乱暴にぶつけてしまうと、その変化によって苦しむ人たちを孤立させ反発を生んでしまいます。変化をのぞむ人ほど、その変化によるデメリットにも目を向け、思いやるコミュニケーションを心がけることが大切です。

大久保利通について知ろう

大久保利通は明治政府の樹立、日本の近代化を推進した人物でした。彼が富岡製糸場などの官営工場の設立に尽力し、殖産興業、富国強兵に励んだことで、日本が短期間で欧米各国と肩を並べるまでに発展したのです。

そんな大久保利通のゆかりの地といえば、出身地の鹿児島県です。鹿児島市には大久保利通像が建立されています。大久保利通が幼少期から青年期までを過ごした鹿児島の地で、大久保利通を始めとする維新の偉人たちの足跡をたどってみましょう。

アクセスマップ

名 称:大久保利通銅像
住 所:鹿児島県鹿児島市西千石町

※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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