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桶狭間の戦いとは? 戦いが起こった要因や、織田軍圧勝の理由を紹介

「桶狭間の戦い」は非常に有名で、織田信長の名を高めた戦国の戦いです。しかしこの戦い、本来なら今川義元は負けるはずのない戦いでした。しかし、戦いに勝ったのは織田信長です。どうしてそうなったのか、その理由には現代でも通じる学びがあります。

桶狭間の戦いとは?

「桶狭間(おけはざま)の戦い」とは、1560年6月5日という戦国乱世真っただ中に起こった、尾張(現在の愛知県)の守護代「織田信長」と駿河・遠江(現在の静岡県)地方を治めていた守護大名「今川義元」の戦いです。

当初、桶狭間の戦いは今川義元が圧勝するという風に、誰もが予想していました。しかしこの予想はひっくり返ったのです。桶狭間の戦いの勝利によって、織田信長の名は天下にとどろきました。

織田信長とはどういう人物?

織田信長は尾張の守護代「織田弾正忠家」に生まれ、尾張統一を成し遂げ、桶狭間の戦いで今川義元を破った後は室町幕府を滅亡させ、天下統一への足掛かりを作った人物です。

現代では著名な歴史的人物として必ず名前が挙がる織田信長ですが、最初から大きな影響力を持っていた訳ではありません。織田信長が産まれた頃の織田家は尾張全てを統一していた訳でもなく、まだまだ全国的に名を知られる存在ではなかったのです。

桶狭間の戦いが起こった理由

桶狭間の戦いが起こった理由としては、長らく義元が上洛し、天下へ大号令をかけるために、京への通過点であった尾張に攻め入ったという説がありました。しかし、近年では義元の狙いは三河支配の安定であっただろうとされています。

父の後を継いだ織田信長は尾張を平定するために動きを加速させていました。信長は尾張国内に食い込む今川方の城に次々に付け城を設けて封じ込めを図ります。三河支配を安定させたい義元としては、非常に目障りな動きだったことでしょう。ついに腰を上げ、織田方の付け城を粉砕しようと攻め入ったことが桶狭間の戦いの始まりでした。

桶狭間の戦いで織田信長に勝ち目はないと言われていた3つの理由

桶狭間の戦いで織田信長の名が天下にとどろいたのは、そもそも織田信長がこの戦いにおいて、まったく勝ち目がなかったからです。戦国時代の当時の人たちから見ても、現代の目線で考えていても、織田信長が勝つと予想する人は少ないはずです。

桶狭間の戦い前の織田信長と今川義元の間には、圧倒的な3つの差がありました。

桶狭間の戦いに勝ち目がない理由1:今川義元の身分

まず、織田信長の織田家は尾張の守護代の家柄でしたが、今川義元の今川家は駿河国・遠江国の守護大名という家柄で、身分上は完全に今川義元の方が上です。

時は足利将軍の率いる室町幕府の末期です。将軍に実質的な権力はなくなってきているとはいえ、足利家の血を引く吉良家があり、今川家はその吉良家の分家という立場です。足利将軍の後継が途絶えた場合は、吉良家や今川家から後継がでる、と言われたほどの家柄でした。

桶狭間の戦いに勝ち目がない理由2:軍事力に差があった

桶狭間の戦いに際して、織田信長は3,000人程度(一説には2,000人とも)の兵しか動員できなかったのに対して、今川義元は25,000人程度の兵を動員していました。

単純に兵の数だけ見ても、10倍近い差があります。今川義元は大軍をもって、織田信長の攻撃に反撃してきていたのです。本来なら、これだけの圧倒的な差があれば勝敗は決まっています。当時の人たちが信長に勝ち目はないと思っても、無理はありません。

桶狭間の戦いに勝ち目がない理由3:経験値に差があった

それぞれの軍を率いる将としても、織田信長が家督を継いで間がないのに対して、今川義元はいくつもの戦いを経て三河を領国とし、武田や北条と三国同盟を結ぶなど目覚ましい活躍を見せており、経験値に大きな差がありました。

今川義元の元には、「大原雪斎(たいげんせっさい)」という優秀な軍師がいたことも有名です。ただ、大原雪斎は桶狭間の戦いの前に亡くなっています。彼が生きていれば、勝敗は変わっていたかもしれません。

桶狭間の戦いでなぜ織田信長は勝てたのか

絶望的と見えた戦い、なぜ織田信長は勝てたのでしょうか。それは綿密に計略を練った上で、勝てる可能性に賭けて全力で勝負にでた織田信長に対して、大軍を率いていることやこれまでの経験から完全に勝ち戦と油断していた今川義元、2人の意識の差にあると言われています。

今川義元が油断していなければ、織田信長は圧倒的な軍事力の差を前にして、敗けていた可能性が高いでしょう。しかし、そうはなりませんでした。

今川義元の油断とは?桶狭間の戦いの一部始終

尾張に侵入した今川軍は織田家の砦を次々と奪っていきました。こうした状況にありながらも、『清洲城』(きよすじょう)の織田信長はまったく動く気配もみせず、軍議もまじめに行いません。重臣の多くはあきれていました。ところがどうしたことか、急に出陣の準備を命じると、みずから馬に乗って駆けだしたのです。突然のことに、ほとんどの部下は後に続くことができませんでした。

今川軍分隊が織田家前線の砦に攻撃した後、織田信長は『熱田神宮』(あつたじんぐう)近くで休息をとり、やがてバラバラと味方が集まってきます。そこで神に加護を祈り、軍を整えさらに兵を進めて『善照寺』(ぜんしょうじ)で待機することになりました。

すでに前線の砦は今川軍の攻撃で落ちてしまっていました。今川義元は前哨戦の勝利に気を良くして、ゆったりと休息していました。巷説では、その場所は『田楽狭間』(でんがくはざま)という、『善照寺』からわずか6kmの窪地だったとされますが、近年は『信長公記』にあるとおり、『桶狭間山』という高台にいたという説が強くなっています。※諸説あり

今川義元の本陣には、土地の神主や僧侶から祝いの品のお酒やおつまみが運び込まれてきたといいます。 やがて織田信長のもとに、「今川義元が桶狭間山で休息をとっている」という情報が入ってきます。このとき織田信長は、敵陣を急襲する決断をくだします。ちょうど嵐とも呼べる強い風雨が巻き起こっていました。その中を織田信長は駆けに駆け、『桶狭間山』に近づきます。この頃には、雨も止んでいました。

午後2時頃、今川本陣と目と鼻の先にまで詰めた織田軍は、躊躇せずに素早く『桶狭間山』へ駆け上っていきました。

桶狭間の戦いのその後

桶狭間の戦いの後、織田信長は勢いを得て美濃の斎藤龍興を破り「岐阜」と改名、上洛して足利義昭を将軍として擁立し、勢力を拡大させていったことはご存じの方も多いでしょう。

一方の今川義元は桶狭間の戦いに敗れ、命を落としています。今川家はその後、今川義元の子である今川氏真が跡を継ぎましたが、勢いは落ち、やがて北条の保護を受けて戦国大名ではなくなりました。しかしその血筋は途絶えず、江戸、明治まで続いています。

桶狭間の戦いから学べること

織田信長からは、どんな不利な状況でも決して諦めず、少ない勝ち筋を見つけて勝負にでる計画性や決断力を学ぶことができ、今川義元からは、どんなに実力差があっても、慢心してしまっては油断や隙が生まれるという教訓が得られるでしょう。

織田信長がもし諦めていたら、勝利はありませんでした。今川義元は、油断していなければ負けはしなかったでしょう。歴史上の人物から、得られる学びはたくさんあります。

桶狭間の戦いについて理解しよう

戦国時代最大の番狂わせと言っても過言ではない桶狭間の戦い。いかに織田信長が絶望的な状況に置かれていたか、お分かりいただけたでしょうか。

今川義元にとっては、本来なら決して負けるはずのない戦でした。むしろ、だからこそ、今川義元には油断が生まれてしまったのでしょう。

戦国時代の戦いではありますが、現代に通じる教訓があります。桶狭間の戦いについてよく学んで、理解しておきましょう。

織田信長が出陣前に祈願した『熱田神宮』へ行ってみましょう

さすがの織田信長も、桶狭間の戦いの出陣前には不安になっていたようです。すでになすべきことは全てなした、後はもう上手くいくよう神頼みするだけ、という状況だったのでしょう。

そんな織田信長が出陣前に祈願したことで有名な『熱田神宮』は現代も存在しており、観光地として有名です。約6万坪の敷地があり、古くから伝わる神事や祭典が数多く行われていますので、ぜひ訪れてみましょう。

アクセスマップ

名 称:熱田神宮
時 間:参拝は24時間可能(祈祷・神楽の受付は8時30分~16時00分)
休 日:無休
料 金:無料
住 所:愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
電 話:052-671-4151

※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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