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長篠の戦いとは? 開戦に至るまでの流れや、武田軍が敗戦した理由を紹介

戦国時代の大きな合戦として有名な長篠の戦い。織田・武田の戦いに至る経緯と、両者の関係性とはどのようなものだったのでしょうか?当時最新鋭の戦法を取り入れた織田に対し、なぜ武田は優秀な軍を率いたにもかかわらず大敗を喫したのでしょうか?長篠の戦いを徹底解明します!

長篠城跡長篠城跡

長篠の戦いとは

長篠の戦いは武田軍と織田軍との戦のことを指し、天下統一のきっかけとなる大きな出来事です。当時尾張の織田信長率いる織田軍と、甲斐の武田勝頼(武田信玄の息子)率いる武田軍が、現在の愛知県新城市で戦いました。

背景について

織田信長と将軍の不仲がきっかけでした。

長篠の戦いが起きる前、武田と織田は友好関係にありましたが、織田と当時の将軍の関係が悪化してしまいます。将軍は織田をこらしめようとし、武田はそれに応えました。将軍側についた武田が、織田と良い関係を築いていた徳川の土地を攻め入ったのです。

戦いが起こった理由

武田信玄の死によって状況が一転し、長篠の戦いに繋がっていきます。

将軍の命令で徳川の土地に攻め入った武田軍でしたが、武田信玄が急死してしまい、撤退せざるを得なくなってしまいました。そこで徳川は取られてしまった土地を取り返します。

しかし、父の意志を継いだ息子の武田勝頼が、再び徳川の地を狙います。そのためにはその最前線でもある長篠城を攻める必要があったのです。武田を迎え討つべく、徳川と織田は手を組みました。

長篠の戦いの結末とは

長篠の戦いに勝利したのは織田でした。教科書でも大々的に取り上げられる長篠の戦いは、織田信長の天下統一への一歩として有名です。

騎馬隊で有名な武田の勢力でしたが、大いに上回る軍勢を率いた織田・徳川連合軍の圧勝でした。

武田信玄と織田信長の長篠の戦いが起こるまでの関係性3選

長篠の戦いにいたるまでに、武田信玄と織田信長の関係性は複雑に変化しています。

その積み重ねで長篠の戦いが起こったと言っても過言ではありません。長篠の戦いをよく知るためには、両者の関係性の遷移を追う必要があります。

長篠の戦いが起こるまでの関係性1:桶狭間の戦い

信玄と信長の関係性は桶狭間の戦いから始まります。桶狭間の戦いは、駿河・遠江を治める今川氏との争いのことです。当時武田氏は今川氏と同盟関係にありました。

織田信長と対立を深めていた今川義元氏が尾張に攻め込み、迎え撃つ形で奇襲を仕掛けた織田信長は見事勝利を収めました。この時点では武田と織田の接点自体は希薄なものでしたが、武田から見て甲斐の脅威となり得る今川に勝利した信長を認識するきっかけとなりました。

長篠の戦いが起こるまでの関係性2:1度は友好関係を結ぶ

両者は一度友好関係を築きます。あまり接点のないふたりでしたが、信長は自分の養女を信玄の息子・勝頼に嫁がせ、武田家と友好関係を結びます。

信長は天下統一を図るため、信玄を敵にしてしまうと厄介だったのです。こうして両家は婚姻関係を結び、一度は友好な関係を築き上げました。

長篠の戦いが起こるまでの関係性3:宗教問題から関係性に亀裂

信長が行った歴史的な出来事のなかでも比叡山延暦寺焼き討ちは有名ですが、実はこの事件によって良好な関係を築いていた織田と武田の間に亀裂が入ります。

延暦寺にいた僧が信玄のいる甲斐へ助けを求め、出家していた信玄もそれを受け入れます。また、同時に将軍である義昭も信長に対して不満を抱き始めていたため、打倒信長の動きが本格化しました。

武田軍が長篠の戦いで敗戦した原因6選

武田勝頼率いた武田軍が、織田信長が率いる織田軍に敗戦した理由はいくつかあります。

武田軍は騎馬隊がとても有名でしたが、その戦力をもってしても織田軍には勝てませんでした。織田軍の勝因として有名な織田軍の鉄砲の三段撃ちが挙げられますが、そのほかにもさまざまな要因があります。

その要因をいくつか見てみましょう。

武田軍が長篠の戦いで敗戦した原因1:信長軍との兵器の性能差

武田軍と織田軍が使用した武器には大きな性能差がありました。

織田は最新鋭の鉄砲を装備していました。有名な三段撃ちについて、現在は創作であると考えられていますが、織田軍が最新の鉄砲を多数用意していたことは確かです。当時の火縄銃は火をつけてから発砲するまでに間があったため、立て続けに撃つことはできませんでした。

一方、武田は優秀な騎馬隊を据えており、銃の準備をしている間に馬で攻め込まれてしまいます。そこで織田は、馬を防止する柵を建てて、その柵の中で鉄砲を撃つことにしました。

武田軍も鉄砲を持っていたとされていますが、当時の鉄砲の欠点を考えると騎馬隊でも十分に太刀打ちできると踏んでいたと思われます。信長が最新鋭の兵器を取り込み、上手く活用したことが勝因の一つです。

武田軍が長篠の戦いで敗戦した原因2:武田軍と織田軍の戦術の違い

武田軍の動きを織田陣営は読んでいました。武田軍が織田軍の鉄砲部隊を甘く見ていたのもあり、武田軍は織田軍の建てた馬を防ぐ柵を簡単に突破できると思い込んでいました。

武田軍は織田軍に対して左右から回り込むような陣形を組みましたが、それを読んでいた織田軍は左右に手厚く兵を敷いて対抗しました。また、陣形の要となる中央部分の部隊が早々に退却してしまったことも敗因として挙げられます。

武田軍が長篠の戦いで敗戦した原因3:天候に見放されてしまう

梅雨の時季であったにもかかわらず戦場だけ晴れてしまい、織田軍の火縄銃を無効化できなかったとされています。

織田信長は「梅雨将軍」と呼ばれるほど、戦いにおいて雨を味方にしてきた武将でした。しかし、武田軍ほどの優秀な部隊をやっつけるには火縄銃を上手に活用することが求められます。

長篠の戦いの時季はちょうど梅雨であったため、火縄銃を使用するにはあまりにもタイミングの悪い季節でした。しかし戦い当日は信長陣営だけ晴れており、逆に武田陣営は霧が立ち込めていたため視界が悪かったとされています。

武田軍が長篠の戦いで敗戦した原因4:信玄の急死による武田軍の瓦解

勝頼の父・武田信玄が急死したため、武田の内部は分裂してしまっていました。武田信玄はカリスマ性溢れる武士であり、その信玄のもとで当時はひとつにまとまっていた武田軍でしたが、信玄が志半ばで急死してしまい混乱を極めます。

そのため、父の意志を継いだ勝頼でしたが信玄の家臣との間で対立してしまいます。家臣たちは信長の脅威を恐れており、戦いに対して良い反応をしなかったとされています。偉大な父の急死によって、四男という立場でありながら指揮をとった勝頼には荷が重かったでしょう。

武田軍が長篠の戦いで敗戦した原因5:武田家内部での対立

武田家の内部でも対立があったとされています。そもそも長篠の戦いの指揮をとった武田勝頼は、最初から武田家の正式な後継者ではありませんでした。

側室の四男である勝頼の他に正式な信玄の跡継ぎがいたのです。しかし兄が亡くなり、いわば棚からぼた餅のように信玄の後継者になった勝頼は「偉大な父を超える」ことに躍起になっていたのです。

信玄の重臣は勝頼を信玄のように認めることはありませんでした。長篠の戦いにおいても、勝頼には戦いに前向きではないことを伝えますが勝頼がそれを無視した形になっています。こうして勝頼と臣下の対立がより深まってしまったのです。

武田軍が長篠の戦いで敗戦した原因6:織田家の兵力を立て直す速さ

織田が武田の想定以上に戦力を立て直すのが早かったとされています。徳川が武田信玄に攻め込まれた際、織田の勢力はたいしたことはありませんでした。

信玄の急死によって撤退した武田軍は、織田は戦いによって更に戦力を失ったと踏んでいましたが、武田軍が再び攻めるまでの間に織田は軍の勢力を伸ばし、長篠の戦いにおいて有利に進められるほどに兵力を回復していたのです。

長篠の戦いにいたもう1人の偉人「鳥居強右衛門」とは

鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)という、長篠の戦いの功労者がいます。鳥居強右衛門とは、当時長篠城を護っていた奥平貞昌の家臣で、長篠城が武田によって攻め込まれた際に徳川に援軍を頼みに行った人物です。

鳥居強右衛門が援軍を頼みに岡崎城に到着した際、そこには既に加勢する準備をした織田・徳川軍がいました。「明日には長篠城に援軍を送る」という言葉を聞いた鳥居強右衛門は、仲間に報告するために急いで長篠城に向かいますが、あえなく武田軍に捕まってしまいます。

武田に対し鳥居強右衛門は、織田・徳川の援軍があることを伝えました。そこで武田は「長篠城の前で『援軍は来ないから諦めて城を渡せ』と言ったら、お前を開放してやる」と言い渡します。

了承した鳥居強右衛門は長篠城の前で声高らかに「すぐに援軍が来るからあと少しだけ持ちこたえろ」と叫びます。武田の命令とは真逆のことを叫んだ鳥居強右衛門を、武田はその場で殺してしまいました。

鳥居強右衛門のおかげで援軍が来ることを知った長篠城はなんとか持ちこたえることができたのでした。

長篠の戦いの後、奥平貞昌は大出世をすることになり、鳥居強右衛門の一族はその忠臣として、子孫の代まで厚遇を受けることになります。

「鳥居強右衛門」から学べる教えとは

鳥居強右衛門の逸話から、大切なことを学び取ることができます。この逸話は美談としても広く知られています。自分の身を投げうってでも仲間を救おうとする気持ちは、多くの人に希望を与えました。

現代において「身を挺す」はおおげさですが、鳥居強右衛門のように守りたい人たちを全力で守る姿は、見習うべきところがたくさんあります。そして後世に語り継がれ、鳥居強右衛門の決死の覚悟が報われている、ということを実感できます。

長篠の戦いのその後とは?

長篠の戦いは織田信長の天下統一の悲願の大きな第一歩となりました。武田という優秀な軍に勝利したことにより、織田は更に勢いがつきます。また、徳川は武田から三河を奪還することに成功しました。

一方、武田は衰退の一途を辿ります。強国として有名だった甲斐ですが、この戦いによって武田の命運が決まってしまったのです。

長篠の戦いについて知ろう

長篠の戦いは信長が天下統一への道を進める上での大きなポイントでした。天下人として有名な織田信長ですが、彼の偉大な功績のひとつとしてこの長篠の戦いが挙げられます。

また、偉大な先代の跡取りとしての勝頼の苦悩や焦り、騎馬隊として一時代を築いた武田軍が新技術を柔軟に取り入れた織田軍に敗れたことなどからも、今の時代に通じる様々な学びを得ることができます。

「長篠の戦い」のきっかけとなった「長篠城」へ行ってみましょう

長篠の戦いのきっかけになった長篠城へ行ってみると、より楽しく長篠の戦いを学ぶことができます。長篠城は現在の愛知県新城市にあります。

城跡の近くには長篠城址史跡保存館があり、深く長篠の戦いを知ることができます。刀剣類も展示されているため、リアルに長篠の戦いを感じられます。

アクセスマップ

名 称:長篠城跡
時 間:立入自由(『長篠城址史跡保存館』は9時00分~17時00分、入館は16時30分まで)
休 日:無休(『長篠城址史跡保存館』は毎週火曜日と12月29日から1月3日。火曜日が休日の場合は次の平日。)
料 金:無料(『長篠城址史跡保存館』は高校生以上210円・小中学生100円)
住 所:愛知県新城市長篠字市場22-1(城址史跡保存館)
愛知県新城市竹広宇信玄原552(設楽原歴史資料館)
愛知県新城市長篠字市場、岩代地内(長篠城跡)
電 話:0536-32-0162(城址史跡保存館)

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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