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伊能忠敬とは? 生涯や成し遂げたことをご紹介。距離はどのように測量していた?

伊能忠敬の生い立ち

伊能忠敬は1745年、千葉県の九十九里町で生まれました。幼い頃の名前は三治郎。17歳で酒造業や金融業、運送業を営む伊能家の婿養子になり、伊能家十代目当主になりました。

伊能家は代々名主(なぬし)を務めており、佐原地域(現・千葉県香取市)では有力な商人です。名主とは、町年寄(まちどしより)という町奉行直下の役人の下につく町役人です。身分は武士ではなく町人ですので、伊能忠敬も町人に序列されます。伊能家では家業の拡大と、名主としての務めを立派に果たしました。

伊能忠敬が、測量の道に進むのは49歳のこと。それまでは家業の繁栄や村の運営に尽力します。

伊能忠敬がしたこと3つ

伊能忠敬は江戸時代に活躍した測量家として知られますが、商人や天文学者としての顔も持っていました。伊能忠敬の成し遂げたことを見ていきましょう。

1.日本全土の地図を作成した

伊能忠敬は、日本全国を歩いて測量して回り、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を完成させました。伊能忠敬が測量の道を進むことになるのは49歳のこと。隠居が認められたため、長男に家督を譲って江戸に移り住んだのです。

この5年後に伊能忠敬の測量事業がスタートします。蝦夷地(北海道)の測量を皮切りに、東北、関東、近畿、中国、四国、九州と日本全国を歩いて測量してまわりました。伊能忠敬は17年間で歩いた距離はおよそ4万キロ。4万キロは地球一周に相当します。

伊能忠敬が作成した地図は、当時としては脅威の精度を誇り、作成後100年間にわたって日本で使用されました。

2.商才を発揮し、財をなした

伊能忠敬は「地図を作ったこと」が脚光を浴びがちですが、実は商才がある人物でもありました。伊能忠敬が伊能家の婿養子になったとき、伊能家は勢いを失っていましたが伊能忠敬の商才によって繁栄を取り戻しています。

伊能忠敬がいかほどの財をなしたのかは、はっきりとわかりませんが、伊能忠敬が暮らしていた地域で飢饉があったときに、私財を投じて村人に配ったエピソードや、測量のために現在の価値で数千万円の自己資金を投入したことからも、大きな利益を上げていたことがわかります。

3.天文学を学び、測量にいかした

伊能忠敬が隠居して江戸に出てきた時に学んだのは天文学です。実は伊能忠敬は佐原に住んでいた頃から暦学(れきがく)という学問を独学で勉強していました。暦学とは、太陽・月・暦の運行を観測して、暦(カレンダー)を作る学問です。江戸幕府には天文方という暦学に基づいてカレンダーを作る部署も作られています。

伊能忠敬は、隠居する前から独学で学んだ暦学を用いて、旅行の際には方位や緯度を「旅行記」にまとめていました。この頃から暦学・天文学への興味があったのでしょう。

伊能忠敬の江戸での師匠は天文学者高橋至時(たかはしよしとき)でした。高橋至時は天文学と暦学を学んだ幕府の天文方に属する学者で、寛政暦を完成させた人物です。

伊能忠敬は当時50歳、高橋至時は31歳ですので19歳も年下の若者に学んだということ。商売で成功をおさめ、社会的地位も高かった伊能忠敬が年下の若者に教えを請うことにはさまざまな困難があったと想像できます。伊能忠敬の学びへの情熱は、それを上回っていたといえるでしょう。
そして、こうして天文学を学んでいたことが、伊能忠敬の天体観測を重視する測量方法に生かされていったのです。

伊能忠敬の測量法について

先述した伊能忠敬の測量方法は、導線法、交会法。これに天体観測を組み合わせて、繰り返し測量することで精度を出す方法でした。

導線法とは、距離と包囲を測りながら進んでいく測量法です。導線法には誤差がありますので、導線法の誤差を修正するために交会法という方法も組み合わせました。

交会法とは、遠くまで見通せる山の上にたち、目標物の包囲を測って誤差を修正する方法です。さらに夜になると、晴れていれば必ず天体観測をしていたと言われています。北極星など星から現在の位置をわりだして測量結果が正しいかどうかを確認します。伊能忠敬はこの繰り返しによって精度の高い日本地図を完成させました。

これらの測量方法は特に特別なものではなく、導線法や交会法は当時の日本で一般的な測量法でした。伊能忠敬はそれをひたすら正確に入念に行ったのです。

ちなみに伊能忠敬が、距離を測るために用いたのが自分の歩数です。伊能忠敬は自分の歩幅を計測し、毎回同じ歩幅で歩けるように訓練した上で、歩数から指定区間の距離を計算していました。伊能忠敬の一歩の歩数は69cmでした。

伊能忠敬から学ぶこと

伊能忠敬の生涯を通じて学べることは、新しいことへの挑戦に年齢は関係ないということ。伊能忠敬が隠居をしたのが49歳。江戸に移り住んだのが50歳。隠居は一線を退くことをいいますので、今でいうと定年退職後に大学に入学するようなものです。

伊能忠敬は、当時としては高齢に分類されたであろう50歳から学び始めた上に、5年後の55歳には蝦夷地に渡って実際の測量を開始します。伊能忠敬による日本地図の作成事業は彼の持っていた学習能力や、健康な身体によって成し遂げられた偉業でありますが、その姿勢は誰でも見習えるものです。

「もう若くないから」「若者に交じって学ぶなんて恥ずかしい」

多くの人は、さまざまな理由をつけて新しいことへの挑戦を避けがちですが、挑戦しなければ何も始まりません。伊能忠敬も同じ人間。先述した通り、彼の測量手法は特別なものではなく、当たり前のことを当たり前にやりぬいたことで偉業を成し遂げました。一歩を踏み出して、コツコツと継続できれば誰にでも結果を残せる可能性はあるのです。

伊能忠敬の測量年表

伊能忠敬の測量の経路を年表で振り返ってみましょう。伊能忠敬は測量に着手してから死去するまでの17年間に、伊豆七島測量以外の全国の測量に参加しています。蝦夷地から徐々に南下して、最終的には九州まで至りました。

当時よりも元気な現在の60代70代であっても連日歩きながら測量し続けることは困難なこと。この年表を見るだけで、伊能忠敬の健脚さと測量への情熱が推し量れます。

年号 伊能忠敬の年齢 出来事
1800年 55歳 東北・北海道南部測量
1801年 56歳 関東・東北東部測量
1802年 57歳 東北西部測量
1803年 58歳 東海・北陸測量
1805年〜1806年 60歳〜61歳 畿内・中国測量
1808年〜1809年 63歳〜64歳 四国測量
1809年〜1811年 64歳〜66歳 九州第一次測量
1811年〜1814年 66歳〜69歳 九州第二次測量
1815年〜1816年 70歳〜71歳 伊豆七島測量(伊能忠敬は不参加)
1818年 73歳 死去
1821年   大日本沿海輿地全図完成

伊能忠敬とは初めて日本地図を完成させた人

伊能忠敬は、日本で初めて地図を完成させた人物であり、その地図は非常に高い精度を誇っていたことから地図完成から100年間も使用されてきました。

彼が精度の高い地図を作成できた理由は、複数の測量方法を用いて誤差を最小限に抑える測量法の導入と、丁寧で根気強い測量の継続にあります。

また伊能忠敬が、商売で成功をおさめ豊かな財力を有していたことも成功の理由の一つ。測量の道に進む前に、振るわなかった家業を繁栄させただけでなく、名主として地域のとりまとめ役、世話役としても活躍します。

伊能忠敬の人生を振り返ると、二人分の人生が詰まっているように感じるほどです。

伊能忠敬記念館で伊能忠敬をさらに詳しく知ろう

伊能忠敬について、深掘りをしたい、もっと彼の歴史に触れたい方におすすめのスポットが伊能忠敬記念館です。伊能忠敬の生まれ育った千葉県香取市佐原に位置する施設。伊能忠敬の前半生と測量時代にわかれて展示されており、伊能忠敬の偉業の詳細を知ることができます。

「伊能図(「大図」「中図」「小図」とその他の図から構成)」と呼ばれる「大日本沿海輿地全図」を含めた地図も展示。伊能忠敬が作成した地図だけでなく世界の地図も展示されていますので、地図に興味がある方も楽しめます。

敷地内には伊能忠敬の旧宅も保存されており、無料で見学可能です。

アクセス

名 称:伊能忠敬記念館
時 間:午前9時から午後4時30分
休 日:月曜日・年末年始
料 金:大人500円、小中学生250円。伊能忠敬旧宅のみの見学は無料。
住 所:千葉県香取市佐原イ1722番地1
電話番号:0478-54-1118

※情報は変更されている場合があります。

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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