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戊辰戦争とは?戊辰戦争が開戦する3つのきっかけと主な出来事5つ

旧幕府軍と新政府軍が争った戊辰戦争とはどのような戦いだったのでしょうか。この記事では戊辰戦争が開戦する3つのきっかけや戊辰戦争中の主な出来事、戊辰戦争から学べることなどをご紹介します。戊辰戦争について理解を深めてみてはいかがでしょうか。

戊辰戦争とは?

戊辰戦争とは旧幕府軍と新政府軍による日本統一戦争です。

戊辰戦争は1868年から翌年にかけて行われた旧幕府軍と新政府軍の戦争で、「鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)」から「箱館戦争(五稜郭(ごりょうかく)の戦い)」までの日本各地で行われた一連の戦いをまとめて戊辰戦争と呼びます。

この戦いで勝利した新政府軍は、倒幕を主導した薩摩藩と長州藩を中心に動いていくことになりました。

戊辰戦争が開戦する3つのきっかけ

戊辰戦争の開戦へ至るにはさまざまな出来事がありました。

戊辰戦争は多くのドラマを生みだし、現代でも新撰組や白虎隊などの名前が語り継がれています。それでは、戊辰戦争とはどのようなきっかけで何のために行われた戦いだったのでしょうか。

ここでは戊辰戦争が開戦する3つのきっかけをご紹介します。

戊辰戦争のきっかけ1:大政奉還

1867年11月に第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を朝廷に返上する「大政奉還(たいせいほうかん)」が行われました。

慶喜が大政奉還を決断した意図は、朝廷側から倒幕の勅命(天皇の命令)が出る前に先手を打ったとも、内乱を避けるためだったとも言われています。しかし、少なくともこの時点ではまだ慶喜が新しい政治体制の中で主導権を握る可能性は残されていました。

戊辰戦争のきっかけ2:王政復古の大号令

1868年1月3日、大久保利通(おおくぼとしみち)、西郷隆盛(さいごうたかもり)、岩倉具視(いわくらともみ)が慶喜抜きの新しい政治体制を確立するためクーデターを起こし、「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」を発して新体制の樹立を決定しました。

幕府を廃止して天皇のもとに新たな職を置いて有力な藩が共同で政治を行うという「王政復古の大号令」が発し、その夜の「小御所会議(こごしょかいぎ)」で徳川慶喜内大臣の辞職と領地の一部返上が決定されます。

戊辰戦争のきっかけ3:薩摩藩邸の焼討事件

1868年1月19日、薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組によって焼き討ちにされました。

王政復古の大号令後も旧幕府や慶喜勢力が健在であったため、薩摩藩は戦いに持ち込むことにしました。そして薩摩藩の浪士に江戸市中取締の庄内藩新徴組の屯所を襲わせ、使用人1人を殺しました。

そのため、旧幕府側は討伐として江戸の薩摩藩邸を焼き討ちし、112人の浪士が捕縛しました。この騒乱の影響が拡大し、その後、旧幕府軍と新政府軍が衝突する戊辰戦争へと繋がっていきます。

戊辰戦争中の主な出来事5つ

戊辰戦争では「鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)」「江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)」「東北戦争(とうほくせんそう)」「会津戦争(あいづせんそう)」「箱館戦争(はこだてせんそう)」という大きな5つの出来事がありました。

ここでは戊辰戦争中の主な出来事5つをご紹介していきます。

戊辰戦争中の出来事1:鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦いは、会津藩や桑名藩などを含んだ旧幕府方が京都へなだれこもうとしたことで始まりました。

旧幕府方は1万5,000ほどの兵力、対する新政府軍の兵力は5,000ほどでした。しかし朝廷が徳川慶喜を朝敵とみなし、錦の御旗を掲げて「大義は我らにあり」と示したことで、旧幕府軍の士気はがた落ちしてしまいます。

そしてその結果、圧倒的な戦力差を覆され、旧幕府軍の敗北で戦いは終わります。

戊辰戦争中の出来事2:江戸城無血開城

江戸城の無血開城によって、江戸への総攻撃が行われることなく江戸城は新政府へ引き渡されました。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍は江戸へ逃れましたが、旧幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)と新政府軍の西郷隆盛の働きによって、江戸城は戦いではなく話し合いによって新政府へと引き渡されることになりました。

戊辰戦争中の出来事3:東北戦争

東北戦争は、朝敵とされていた会津藩と桑名藩の扱いをめぐる東北諸藩と新政府軍の対立によって発生しました。

東北諸藩は会津藩と庄内藩の「朝敵」扱いを許してもらえるように新政府へ嘆願を行いましたが、拒絶されたため「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」として新政府に対応する軍事同盟を結成しました。

そしてこの戦による被害は東北地方へと広がります。

戊辰戦争中の出来事4:会津戦争

会津戦争では、白虎隊の集団自決という悲劇が起こりました。

会津藩の処遇をめぐり、会津地方を主戦場に新政府軍と奥羽越列藩同盟の戦いが行われました。

しかし会津藩は不利な状況で、「白河口の戦い」や「二本松の戦い」などで旧幕府軍は敗れ、城下町の火災を若松城の落城と間違えた白虎隊が飯盛山で集団自決するという悲劇も起こりました。

戊辰戦争中の出来事5:箱館戦争

箱館戦争では、榎本武揚(えのもとたけあき)らが新政府軍に降伏したことで戊辰戦争は終結しました。

奥羽越列藩同盟軍や榎本武揚、土方歳三(ひじかたとしぞう)などは北海道へ出航し、朝廷の下での北海道の支配を求めましたが、新政府は認めず戦いとなりました。

そして青森に戦力を置いて上陸し、戦いの中で土方歳三は戦死し、旧幕府軍が鎮圧されたのを最後に戊辰戦争は終結しました。

戊辰戦争から学べること

戊辰戦争はお互いの主義や主張の違いによって起こりました。

新政府軍と旧幕府軍のどちらも己の信念に基づき、国のために深く考えていました。しかしお互いの主義や主張が認められなかったことから、大きな争いとなってしまいます。

立場、見方を変えれば「正義」「正しさ」のあり方も変わります。誰かと意見が衝突した時、自分は正義で相手が悪と思い込むのではなく、相手の見方を考えてみる視点をもてると良いのかもしれません。

戊辰戦争について理解しよう

戊辰戦争は旧幕府軍と新政府軍によるお互いの信念をかけた戦いでした。

旧幕府軍は将軍を統率者としてこれまでと同じように政治を行っていくことを主張し、対する新政府軍は天皇を中心として国をより強くしていくことを主張しました。

そして互いの主張が受け入れられなかったことから、争いは東北諸藩などを巻き込み、多くの悲劇を生む結果となりました。そして北海道へ逃げた旧幕府軍が鎮圧されたことで、戊辰戦争は終わりました。

最新鋭の武器アームストロング砲や銃の攻撃に1か月耐えた『会津若松城』に行ってみましょう

会津若松城は東北随一の堅城として有名なお城です。

会津若松城は幕末に京都守護職を務めた会津藩藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が住んでいたお城で、「鶴ヶ城」とも呼ばれています。

戊辰戦争では新政府軍の最新鋭武器であるアームストロング砲や、新型銃の猛攻に1ヶ月も耐えました。2011年には大改修が行われ、現在では江戸時代と同様の赤瓦に葺き替えられています。

アクセスマップ

名 称:会津若松城(鶴ヶ城)
時 間:8時30分〜17時00分(入城締め切り16時30分)
休 日:無休
料 金:天守閣 大人410円・小人150円
茶室麟閣共通券 大人510円・小人510円
住 所:福島県会津若松市追手町1-1
電 話:0242-27-4005

監修者プロフィール
門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

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