創造性とは未知の問いを見つけ、そこに仮説を立て、それを立証し、実現する力だ。有形無形によらず、あらゆるものや仕組みは、人の創造性から生み出されてきた。だからこそ学生の創造性を育むことは、教育本来の最も大切な達成目標の一つのはずだ。しかし創造性は属人的な才能だとみなされていて、コンプレックスと結びつきやすい。例えば2017年のデータでは、自分のことを創造的だと思う学生は、日本ではわずか8%しかいなかったという結果がある。日本には謙遜する文化があるとはいえ、それでも世界平均の44%程度と比べてみると、この数字はかなり低いと言わざるを得ない。
しかし創造性を育む学習方法は本当にないのだろうか。それを具体的に身につけられる体系がきっとあるはずだ。この章では、そのヒントをまとめておきたい。
試験では答えのある問題が出されるが、社会で出合うのは答えのない問いばかりだ。多くの社会人は、まず未知の状況に向き合い、答えへの手がかりを探し、納得できる解にたどり着く道筋を経験する。こうした答えのない問いを発見・探究するには知識が必要だし、教科書の中には確かに大切な知識が詰まっている。
しかし知識獲得の前にまず、学生の中に「なぜ学ぶのか」という目的がなければ、知識は自身の興味を探究するためのものではなく、試験で高い点数を取るためだけのものになるだろう。つまり大学の一般教養課程での教員の大切な役割は、答えを与えることではなく、問いを発見する下地をつくることだ。その観点で言えば、大学の一般教養課程の場こそ、学生が問いを発見し、探究する姿勢を身につける絶好のタイミングではないか。
挑戦には当然のように失敗がつきまとう。もっと言えば、発見の多くは失敗から生まれる。ノーベル賞を受賞した科学者の多くが、失敗から発見を導いている。しかし学校では、多くの生徒、学生がとかく失敗を避けようと思い込みがちだ。すると生徒、学生は、失敗を怖がって挑戦しなくなるだろう。これでは創造性は育たない。
まずは失敗しても笑われたり怒られたりしない、心理的に安全な環境をつくり、そうした前提を教員は生徒、学生に宣言しよう。心理的安全性が保障された環境でこそ、大きなチャレンジができる。実はやったことのないことや、一見するとバカげていると思われるようなことへの新しい挑戦こそが最善の処方箋となる可能性がある。挑戦をノイズや失敗だとみなす偏見がもたらすこの誤解こそが新たな価値の芽を摘んでしまう。偶然をむしろ積極的に経験すること、その経験から新しいことに気づく総量を増やすことこそが本来の学びなのだ。
問いが本質的なものならば、その答えは一つとは限らない。次なる問いへの道筋もまた一つとは限らない。結果と過程の多様性を感じることが、未来を創り、そして生き抜くための確かな力を育む。正解に導くレールを敷くのではなく、挑戦と失敗から自分にとっての正解を掴む経験を学ぶ。そんなカリキュラムを、ぜひ大学生活の序盤から取り入れたい。
答えのない問いを探究すれば、何が正解かわからないのは、当たり前のことだ。観点によって「正しさ」は違ってくる。絶対の正解がない未知の問いに答えを出すには、納得に至るまでの多くの試行が必要となる。ここではエラーや失敗、あるいはチャレンジの経験は、創造性を育む基盤となる。未知に出合う瞬間にこそ創造性が発揮され、育まれていく。これまでの日本の教育は、この大切なエラーを排除してきたのではないか。ではどうすれば、未知に出合い、偶然性を許容し、逆にエラーを活用する学びの場につくり変えていけるだろう。
実は人々が何かの変化に挑戦するとき、あるいは偶然のエラーが起こるとき、そこに典型的なパターンが現れることがある。逆にパターンを知っておくことは、偶発的な発想を促すのに役に立つ。
創造性を育むための学びは、学生にとって未知へ向かうプロセスだ。未知の探究では、自分の思い込みこそが壁となる。思い込みを超えるには、自分の外にあるものを客観的に理解すること。つまり「観察」を学ぶことが大切だ。では、観察とは一体なんなのか。
まず観察の方法を調べると、社会には専門性ごとに様々な観察法があることに気づく。そして、よく似た観察方法が分野ごとに別の名前で使われていることに気がつくだろう。さらにこうした観察方法の歴史をたどってみると、その起源は医学や生物学から派生したことが多いことにも気づく。つまり多くの観察は、その起源が「自然科学」のなかにある。
自然科学の歴史は古く、人類は自然の観察を何千年も続けてきた。自分の身体と自分たち人間を囲む自然こそは、人類が最も知りたかったものだからだろう。その連綿とした歴史のなかで、いくつかの観察方法はそのまま学問として体系化された。私たちはこうした偉大な自然科学の先人たちから、観察の方法を学ぶことができる。
ここでは、代表的な自然科学の観察方法について「解剖的観察」「生態的観察」「系統的観察」「予測的観察」の4種類として整理したい。人は「未知」を観察するとき、その空間的関係と時間的関係を観察するしかない。つまり内部と外部、過去と未来を観察するしかないと考えると、この4つの観察が基盤となるのではないか。こうした先人の素晴らしい観察方法は、自然科学のみならず、実はあらゆる探究に使うことができる。
こうした4つの観察方法は、それぞれが自然科学の歴史の中で体系化されてきた偉大な先人の知恵だ。学生がこうした観察方法を身につけて社会を見つめれば、状況の必然性を掴みやすくなり、社会へと適応する力を高められるだろう。
ものを観察すると、次に見えてくるのはその背景にある理由や目的だ。世の中のほとんどのものには、何らかの理由が背景にある。この理由は手段よりも大切だ。なぜなら手段は理由のためにあるのだから。けれども手段は教えやすく、理由は観察しにくい。理由は仮説的になったり哲学的になったりしやすいからだ。そのため理由を探究する学びは一元的な答えが決まるものではない。そのため学校では理由を探究するカリキュラムは少なかった。しかしだからこそ、そんな学びに挑戦する必要があるだろう。
まずは観察の方法を教え、観察の結果から理由を推測させる学びを提供しよう。ここで観察する対象は、自然物でも人工物でも、教科科目でも、学生が興味のあるものならば何でもよい。観察自体の経験が、未知を発見し、理由を仮説立てする学びへとつながる。
観察する。仮説を立てる。失敗を恐れず挑戦する。その結果から原因を観察する。うまくいったこと、うまくいかなかったことについて、その理由を観察する。こうした偶然のエラーへの挑戦と、状況の必然性の観察が創造的学習の基本だ。そのプロセスを往復すれば、学生の発想は自ずと磨かれていく。
一つの問題は、小中高大を通して、こうした偶然性と必然性の往復を自由に思考する時間が少ないことかもしれない。カリキュラムの進捗を追求するあまり、未知を探究したり、失敗したり、自分の意見を示したり、苦手なところをやり直したりする時間がないのだ。
だが思考はアウトプットすることで初めて自分のものとなる。自分自身の答えにたどり着くためには失敗と観察を往復する時間を取り、仮説を立てる学びこそが大切だ。改めてエラーと観察を繰り返す反復の重要性を伝え、学生が自分なりの仮説を導く時間を提供しよう。
創造的思考の反復練習を繰り返すには、まずは生まれてきた仮説を、アウトプットする練習が大切になる。この場合のアウトプットとは、例えば客観的な文章を書くことや、プロトタイプの模型をつくること、CG(コンピュータグラフィックス)パースに描くことなど、あらゆる表現手法があり得る。つまりものをつくることは、全般的に創造性を頭や身体からアウトプットする練習でもあるのだ。十分にアウトプットできると、その仮説を改めて自分の思考から切り離して観察できる。つまり自分の思い込みにとらわれずに自分の外側のものとして観察するためにも、プロトタイプを可視化してみることはとても重要だ。